○ グローバルキャンペーン

 1937年に端を発した日華事変はそのとどまるところを知らず、中国全土に戦火を広げた。
 日本が中国に対して求めたものは食糧の供給源であると共に、日本製品の市場としての立場であった。しかし中国政府はこれを拒み、戦争は政府間のものから民衆を巻き込んだ総力戦へと激化していったのである。
 この日本の軍事行動が北のソ連、東のアメリカ、西のイギリス、南のオランダにとって重大な脅威となったことは言うまでない。この中で、最も鋭敏に対応したのはアメリカであった。当時のアメリカはフィリピンを植民地としており、中国市場への経済的進出を虎視耽耽と狙っていたからである。

 日本軍は緒戦において勝利を重ねたが広大な中国大陸を舞台とした戦いは、次第に泥沼の様相を呈し始めていた。
 日本の一連の動きに対して、アメリカは遂に日本の生命線とも言うべき液体燃料の禁輸を行うに至った。満州、中国北部、日本本土など広大な領土を有する日本ではあったが、液体燃料の産出地域はほとんど含まれておらず、国内の液化石炭技術も実用化にはほど遠かった。
 海国である日本の立場上、米英に対抗する強力な艦隊は当時の世界情勢の中では必要なものであり、燃料の備蓄も対米戦をして2年分を有するまでに至った。
 ここに昭和16年12月開戦の大きな原因がある。山本五十六連合艦隊司令長官に、1年ないし1年半の艦隊の活動が可能であると言わしめたのも、この事情による所である。

 ヨーロッパにおける戦いは、フランスの屈服により小康状態を得たと見られたが、1941年6月22日の独ソ戦勃発により再びその戦火を拡大することとなった。夏期におけるドイツ軍の攻勢は、驚くべき速さでモスクワ、レニングラード、スターリングラードの諸都市に迫りソ連の屈服も時間の問題と思われた。
 日本の世論は、ドイツの勝利に便乗して一気に満蒙問題を解決しようとする方向へ動いていった。しかし陸軍が対ソ戦を計画していたのに対して海軍はアメリカを仮想敵としており、ここに、日本の国策の矛盾が露呈したのである。
 はたして、ドイツに呼応してソ連を背後から突くのか。それとも燃料問題を解決すべく、オランダ領インドネシアに対して侵攻を企てるか。軍指導部は2つに分かれ大いに論争した。
 度重なる御前会議の末、日本はソ連を主敵とせず、燃料問題の解決を第一とするに至ったのである。

 南方からの石油の輸送は、船舶に頼らなければならない。輸送航路の中間地点たるフィリピンの攻略を企図するため、対米戦は避けられぬものと考えられるようになっていた。
 日本の戦争目的は第一段階作戦における南方資源および、その補給路の確保。第二段階作戦における敵の反撃を遅らせるための要点確保。さらに第三段階作戦における持久によって計画されていた。
 初期の計画ではハワイ、セイロンの攻略まで作戦に含まれていたが、第一段階作戦の主要目標は、ビルマ、マレー、フィリピン、インドネシア、および太平洋各諸島の制圧であった。
 かくして、日本軍は12月8日の開戦を目指し、活動を始めたのである。