○ 幻の大東亜共栄圏(第二段階作戦)

 日本はアジア地域を攻略することに当たり、「八紘一宇」「大東亜共栄圏」などをスローガンにして、日本を盟主と仰ぐ傀儡政権を作り、実質的にアジア地域支配しようともくろんでいた。ビルマ義勇軍オン・サン将軍やインドの独立運動家チャンドラ・ボースなどを援助したのもその為であった。
 
 1941年12月8日の開戦以来、破竹の勢いで連戦連勝の日本軍は、計画では開戦後半年はかかると予想されていたジャワ・スマトラなどの油田地帯の占領フィリピン・シンガポールなどのアメリカ・イギリスのアジアにおける重要拠点の制圧を1942年5月までに成し遂げていた。
 しかしこの勢いに乗じてオーストラリア、インド方面に積極的に侵攻して、これにともなって起こる艦隊決戦にて敵艦隊を殲滅して制海権を獲得する事を主眼に置いていた海軍に対して、陸軍はインドやオーストラリアなどの攻略は我が国の国力に合わないとして、中国を制圧して恒久的な戦力持久体制を作ろうとしていた。この相反する両軍の対立構造は、その後のソロモン・ニューギニア方面での戦いでも顕著になる。
 結局、その妥協案として生まれたのが「米豪遮断作戦」であった。

 一方のアメリカ海軍は、開戦劈頭に戦艦軍が叩かれて劣勢に回っていたが、新司令官となったニミッツ長官は、日本軍が示した航空主兵の戦術を研究して、残された3隻の空母部隊をフル活用し、1942年4月にはドーリットル大佐による東京初空襲を成功させるなど、着々と反撃の体制を整いつつあった。
 潜水艦部隊も魚雷が集積されていたフィリピンを攻略され、魚雷不足に悩まされてはいたが、石油やボーキサイトなどの戦略物資を南部の資源地帯に依存する日本のアキレス腱兵站線の遮断を開始した。
 フィリピンで部下を見捨ててオーストラリアに脱出した、アメリカ陸軍マッカーサー大将も部隊の再編を急いでいた。