○ 満州ニ油田アリ

 1929年に世界的に広がった不景気により日本も深刻的な打撃を受けた。この状況を打開するために軍部の一部に満州を植民地化して危機を逃れようとする動きが強まった。一方、中国では21ヵ条の要求以来、排日運動が益々高まっていた。

 こうした情勢の中、1931年9月18日、関東軍の謀略で行なわれた柳条湖の南満州鉄道爆破を口実にして満州事変が勃発した。日本政府の戦争不拡大方針を無視する形で、関東軍は戦線を広げ、たった5ヶ月間で満州全域を占領した。
 日本国民はこの事変を熱狂的に支持し、日本政府もアメリカ・イギリスとの軍事衝突に発展しないと判ると徐々に追認していった。関東軍は翌年の1932年3月1日に清国最後の皇帝溥儀を執政に迎え都を新京に定めて満州国建国を宣言させ、日本の傀儡国家とした。
 中国の訴えで国際連盟はリットン調査団を派遣して調査させると鉄道爆破は関東軍の仕業であると判明し、その報告を受けて国際連盟は、日本軍の満州からの即時撤退を通告した。満州事変以降、軍令部からの圧力をはね除けられなくなった日本政府は、満州からの即時撤退に応じられるはずもなく、1933年国際連盟を脱退すると対中国戦に邁進していった。
 1938年友好国中国に対して日本が本格的な戦闘を拡大し出すと、アメリカは対日戦略プログラムである「新オレンジ計画」を実行に移していった。
 その第一弾として翌年、日米通商航海条約破棄を通告してきた。石油・鉄屑・工作機械等の戦略物資の輸出規制を行い始めた。

 これらの物資は、日本の依存度が6割を越えていて、特に石油に関しては8割近くをアメリカに頼っていた。特に陸軍は大陸での戦闘継続のためには大量の石油が不可欠なのは判っていたが、それを手に入れるためには大陸から手を引かねばならぬという二律背反に陥っていた。
 海軍でも以前から、アメリカ以外の国から、できれば自国の勢力圏内に、独自の油田を欲していたが、ことごとくアメリカの横やりで、メキシコやサウジアラビア等の産油国との取引はできなかった。
 国内での開発も北海道や新潟等からわずかな量が産出されていただけであった。

 そんな状況を打開しようと海軍では、石炭から石油を造り出す人造石油造りの研究を大正時代から始めていた。
 人造石油とは、石炭を液化してそれに水素を添加することによって得られる方法やガス化した上で触媒により石油を合成する方法などがあった。この技術は、同じく石油資源の乏しかったドイツが技術的に進んでいた。
 陸軍でも1938年にようやく燃料としての石油に着目し始め翌年になって陸軍燃料廠が設立された。これは海軍から20年も遅れてのものであった。
 陸軍でも人造石油の研究やハイオクタン化ガソリンの開発などを始めて、民間企業や学会などから技術者・研究者を国家総動員法を適用して集めた。また広大な満州の大地を掘削して油田の発見に当たるために作井部隊を集めて満州各地に向かわせた。

 古文書や土地の伝承などを手がかりに雲を掴むような作業であったが、1940年ついに黒竜江省安達県ゴルロス後旗バルガソムで大油田を発見した。
 しかしこの油田発見は、満州に勢力を伸ばしたかったソ連を刺激するには充分であった。前年の5月にノモンハンにて激闘を展開した両国は、お互いの国境に大軍を張り付かせていたが、油田発見の情報により緊張は一層高まっていった。
 アメリカ国内でも「日本が石油権益を得ることはとても危険な事である」との世論ができつつあり、このまま野放しにしておくとヨーロッパを席巻しているドイツとアジアを征服した日本により、手に負えなくなると感じていたルーズベルト大統領は、ソ連のスターリンに密使を送り、対日戦争を働きかけた。
 満州の権益を欲したスターリンは了解して1941年12月8日に大軍を南下させた。

 ルーズベルトも太平洋艦隊に対し出撃を命じた。二つの大国から宣戦布告された大日本帝国は未曾有の危機を迎えた。
 皇国の興廃を懸けた戦いが始まろうとしていた。