戦史特集第一回

西部ニューギニアの戦い

 昭和17年6月のミッドウェー海戦での敗北、それに伴う東部ニューギニアの要衝「ポート・モレスビー攻略」の失敗。その後、ガダルカナル島を奪回したアメリカ軍の大反攻作戦により、東部ニューギニアの日本軍は次々と撤退を余儀なくされ、西部ニューギニアに集結をはじめた。

 昭和18年9月、日本はビアク島を含めた西部ニューギニア方面を絶対国防圏の一角と定めた。ビアク島はフィリピンから東部ニューギアを目指す飛行場として好位置にあり、昭和18年から同島に飛行場建設を開始していた。

 日本軍は飛行場防衛のため、中国戦線から阿南中将率いる陸軍第2軍を西部ニューギニアに派遣。うちビアク島には第36師団を分遣した。さらに、第35師団のビアク島への増援を見込んでいたが、米潜水艦に攻撃され甚大な被害を受けてしまい、上陸出来た部隊は少なかった。

 さらに昭和19年5月、千葉県佐倉市にて召集された第221連隊が増援として西部ニューギニアに派遣された。この221連隊が上陸する寸前、5月27日にアメリカ軍がビアク島に上陸を開始。日米による「ビアク島の戦い」が始まったのである。アメリカ軍は飛行場を奪取しようとするも、頑強な抵抗に会い遅々として進軍できなかった。

 この状況を見た日本軍は、6月に入り、支援作戦「渾(こん)作戦」を発令。戦艦数隻を含む護衛艦と上陸船団による複次輸送を開始した。第1次、2次と作戦は失敗に終わり、ついに戦艦大和を投入することとなったが、6月11日にマリアナ諸島にアメリカ海軍が来襲した報を受け「渾作戦」は中止となったのである。

 一方、第221連隊は米軍の上陸を阻止するために先に上陸はできたものの、米軍は海軍により日本の補給船を攻撃する作戦をとった。そのため補給が絶たれ孤立した部隊は、熱帯雨林での戦場において悲惨な状況に追い込まれていった。中には戦闘を経験せず、ひたすら行軍を繰り返した部隊もあった。現地で作物を育てようにも期間がかかる。不衛生な水でマラリアに感染する者は後を絶たなかった。

「行くとこ行くとこいっぱい死んでるんです。死屍累々。」
──元兵士の証言。

 その後、日に日に一人、また一人と人数が減っていき、第221連隊の中で生きて終戦を迎えることが出来たのはほんの少数であった。

 ビアク島守備隊も補給が来ることを信じ、7月まで約一ヶ月自活しながら戦闘を行ったが、遂には同島を脱出することになるのであった。この一連の作戦で、航空機や戦闘部隊の多くを失い、その後のマリアナ沖海戦で決定的な敗北を喫してしまった日本軍は敗戦への一途をたどっていくことになるのであった。


 「太平洋の嵐」における「ビアク島」

 本作においてはニューギニア島の根拠地「ビアク」として設定されています。「ビアク」はニューギニアより南の連合軍根拠地からの経路にあたるため、本作中においても重要な拠点のひとつです。