戦史特集第三回

フィリピンの戦い

 太平洋戦争序盤で日本軍は米領フィリピンを手に入れたが、ミッドウェー海戦の敗北以降、米軍による反攻作戦でニューギニア方面の日本軍は次々と敗北。さらに日本軍は1943年9月末に定めた絶対防衛圏内のマリアナを突破され、次はフィリピンが目標となるのは火を見るより明らかだった。

 日本軍がフィリピン防衛の戦力増強を図っている最中の1944年10月12日、台湾沖で台湾沖航空戦が起こり、出撃した搭乗員の米空母を多数撃沈したという大誤報を大本営は信じてしまい、レイテ島での決戦を決意した。

 1944年10月20日、マッカーサー率いる米上陸部隊がフィリピン奪還の第一弾としてレイテ島に上陸。防衛する日本陸軍第35軍16師団が応戦するも押されていった。

 日本軍海軍も持てる海上戦力全てを投入。撃退に臨むが、立ちはだかる米艦隊の前に断念せざるをえなかった。

 結果、レイテ島の防衛戦力は11月20日の時点で四分の一まで減少し、増援を送るもレイテ島は結果的に占領されてしまう。

 レイテ島の戦いも収束に向かっていた12月15日、米軍は飛行場確保のためにミンドロ島へと上陸。日本軍はもとより防衛を断念していたために大規模な戦闘に陥らずに戦闘は終結した。

 1945年1月、ついに米軍上陸部隊がルソン島西岸「リンガエン湾」に現れた。米軍は3日間にわたり艦砲射撃を行い、大兵力を持って上陸を開始する。

 一方、迎え撃つのは「マレーの虎」とよばれた山下大将率いる日本軍第14軍だった。山下大将「自活自戦永久抗戦」のもとで持久戦を計画。部隊を首都マニラを中心に3部隊に分け、島北部にも兵を配備し徹底攻勢を構えた。

 上陸後の米軍は山岳が続く北部攻略部隊とマニラ攻略のため南下する部隊に分けて進軍。上陸地点付近で粘る日本軍だったが山岳戦になると日本兵が見たこともない工作機で補給路を作り、進軍する米軍に山岳を移動する日本は追い込まれることになる。

 制空権と制海権が無い日本軍は持久戦において不利で、連日連夜の爆撃を地面を掘った塹壕で耐え、米軍の戦車に攻撃するも歯がたたなかった。自活できない日本軍は次第に食糧不足と不衛生な環境で倒れる兵が続出した。ルソン島北部を攻め入る米軍とバレテ峠・サラクサク峠で一進一退の激戦を経験した第10師団の証言では、

「戦車が見える位置で弾を撃つがはじかれるのが分かる」

「戦車の陰に隠れた装甲車からは機銃などによる攻撃を受ける」

 など米軍の戦力に日本の武器が通用しない状況が各地であり、追い込まれた日本軍は「斬り込み隊」とよばれる特攻部隊で文字通り斬り込み、散っていった。

 その後、マニラの市街地に立てこもり抗戦するも陥落。その他の部隊も各地で敗北していった。また、北部方面の部隊も残存兵は、終戦まで飢えと傷病に苦しみながらも小規模ながらの戦闘をくりかえした。終戦を迎えることが出来たものはほんの一握りであった。