そのような状況下で、日本はシャンハイ、カントンなどの
中国の根拠地から完全に撤退することにより
蒋介石政権との停戦協定だけでなく、
対ソ防衛協定をも締結することになるのであった。
そして1941年12月、日本の三国同盟破棄を受け、
対日石油輸出禁止措置は発動されずに終り、日本の外交団は
その場で日米中立条約を結ぶことに成功した。
そして翌年4月、春の訪れと共に大陸ソ連支配地域への
侵攻作戦が開始されると、この作戦に対し、
これ以上の中国大陸での共産勢力の拡大を望まない米英は
黙認の態度を示したのであった。