1,異説/アラブなき湾岸戦争

 1990年8月2日、戦車350両を中心とするイラク軍の機甲師団10万人が、突如、隣国クウェートに侵攻を開始。圧倒的な兵力差で、これを占領下に置き、一方的にクウェートの併合を宣言するという事件が起きた。「湾岸危機」である。
 イラクが侵攻に踏み切った背景には、8年間に渡るイラン・イラク戦争で莫大な戦時債務を背負っていたにもかかわらず、外貨稼ぎの頼みの綱だった原油価格が、クウェートを中心とするOPEC加盟国の一方的な石油増産で低迷し、しかもイラクと採掘権でもめていた国境地帯の油田で、クウェートが採掘を強行するなど、二国間で外交的対立が悪化していたことが挙げられる。

 この暴挙に近いイラクの軍事行動に対して、国連安保理はすぐさま、クウェートからの撤退要求と経済制裁を決議。
 世界的にイラク非難の声が高まる中、米国はいち早く多国籍軍によるイラク攻撃を示唆し、英国・フランスなどもこれを支持した。
 この動きは、本来はイラク寄りと思われていたアラブ・イスラム諸国にまで波及した。

 その結果、イラク・クウェート両国と国境を接するサウジアラビアを、クウェートの二の舞とさせないために、「砂漠の盾」作戦が発動された。
 これは、サウジアラビア国境地帯に、米軍・英軍・アラブ合同軍など50万人規模の多国籍軍が終結して、大兵力でイラクの戦線拡大を食い止めるという作戦だった。

 その後、一向に撤退を開始しないイラクに業を煮やした多国籍軍は、撤退要求期限の2日後の1991年1月17日、イラク・クウェート両国内のイラク軍に向けて猛烈な空爆を開始した。いわゆる「砂漠の嵐」作戦である。
 かくして「湾岸危機」は「湾岸戦争」へと発展してしまう。

 ところが翌18日、イラクは最後の賭に出る。多国籍軍の結束を乱すことを目的として、イスラエルに対してスカッドミサイルによる一方的な攻撃を開始したのである。

 もし、この攻撃に対して、イスラエルが反撃することになれば、かねてからイスラエルの宿敵だったアラブ・イスラム諸国が多国籍軍から離脱するのは確実である。そうなれば、それ以外の多国籍軍も、中近東のアラブ・イスラム諸国に提供を受けていた基地などが使用出来なくなる可能性が高い。
 史実では、このときイスラエルは、米国・国連の強い要請によって反撃を断念し、わずかな迎撃ミサイルの提供を米軍から受けただけで、一方的にミサイル攻撃にさらされることになった。

 そして、1ヵ月に及ぶ空爆の後、多国籍軍はついに2月24日、地上戦「砂漠の剣」作戦に踏み切り、圧倒的な兵力をもって2月27日にはイラク軍をクウェート国内から駆逐することに成功したのである。停戦は3月3日だった。
 だが、もし……イスラエルが、大局を見ることなく、自国防衛のための反撃に踏み切っていたとしたら……。