5,パキスタン内戦

 かつて、インドの核兵器保有に対抗して核実験を強行したことで、国際社会から数々の制裁を受け、孤立化しかけたパキスタンだが、無血軍事クーデターで政権を掌握したムシャラフ陸軍参謀長による軍政色が濃い政治形態も、国際的な非難の的になっていた。

 ところが2001年、9.11同時多発テロ事件が発生したことで、アフガニスタン国内のテロ組織アルカイダと、それを支持するタリバーン政権を掃討する戦争を米軍が開始。
 このとき、アフガニスタンの隣国パキスタンは、米政府からの要請で、米軍に全面的に協力する。その結果、軍政的統治は継続していたものの、対テロ戦という大義の名の下で、その国際的立場は完全に回復したのである。

 だがやがて、こうした米軍への協力姿勢は、特に北西部の部族地域を拠点とするイスラム原理主義者たちや原理主義を掲げる最大野党「統一行動評議会(MMA)」から反発を買い始めた。
 2007年7月、首都イスラマバードで、イスラム神学校の学生たちが政府施設を襲撃。その後、神学校内に立て篭って治安部隊と衝突し、多数の犠牲者が出る事件が発生したのも、その表れである。
 また、2001年6月の民政移管で大統領に就任後も、自ら軍参謀長を兼任し、野党勢力に対して、実質的な反政府活動を許さなかったことも、国内外の民主勢力から批判を浴び続けた。

 そんな中、2007年10月に行なわれた大統領選で、再選を果たしたムシャラフ大統領だったが、軍職を兼務することが憲法に違反するとして、最高裁判所を始め反対勢力から激しく非難される。
 さらに、ムシャラフ大統領と政権協議をするために、亡命先のドバイから帰国したばかりの野党「パキスタン人民党(PPP)」総裁のブット元首相が、カラチ市内をパレード中に爆弾テロに遭い、支持者ら130名以上が犠牲となる事件が、10月19日に起きたのである。
 テロの黒幕が誰かを巡っては、様々な憶測が流れたが、少なくともこれを機会に、ムシャラフ政権の基盤は一気に崩れ始める。

 危機感を感じた大統領は、11月3日、実質的な戒厳令ともいえる非常事態を宣言。同時に自身にも都合の悪い憲法を停止する強硬手段に打って出た。
 この独裁政治的手法は、有力者ブット元首相の軟禁・解放などを経た後、米国からの圧力でやがて緩和された。

 だが、年が明けて、ついに恐れていた最悪の事態が起こる。

 総選挙を控えた1月、野党勢力による暴動多発に紛れて、イスラム原理主義過激派がテロ活動を激化。混迷する政治情勢の中で、軍内部からも反ムシャラフ派が決起して、パキスタン全土が内戦状態へと突入してしまったのである。
 パキスタンを南アジアの軍事拠点とみなしつつあった米政府は、米軍を支持し続けてきたムシャラフ政権を失うことを恐れ、これにただちに反応。内戦鎮圧のために緊急展開部隊を送り込むことを決定した。