茶聖「千利休」

茶の湯の改革に熱心に取り組み、その名を知らぬ物がいないほど有名な茶人。

堺出身で関西弁を話す、礼儀作法をきちんと守る落ち着いた性格。しかし、礼儀作法を守らない者に対しては一切容赦がない。

どうやっているのかわからないが、服の中に茶道具をいつも携帯している。

CV:桜川未央 デザイナー:たぢまよしかづ

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史実紹介

 和泉国・堺の商家の生まれ。家業は納屋衆(倉庫業)。
 若い頃から茶の湯に親しみ、17歳で北向道陳、ついで武野紹鴎に師事し、師とともに茶の湯の改革に取り組んだ。
 堺の南宗寺に参禅し、その本山である京都郊外紫野の大徳寺とも親しく交わった。
 織田信長が堺を直轄地としたときに茶頭として雇われ、のち豊臣秀吉に仕えた。
 天正13年(1585年)10月の秀吉の正親町天皇への禁中献茶に奉仕し、このとき宮中参内するため居士号「利休」を勅賜される。
 草庵茶室の創出・楽茶碗の製作・竹の花入を使うなど、わび茶の完成を目指していく。
 秀吉の聚楽城内に屋敷を持ち、聚楽第の築庭にも関わり、三千石の禄を貰うなど、茶人として名声と権威を手にれた。