独眼の軍師「山本勘助」

『風林火山』の四将と比肩する軍配者にして『陰』の一字を与えられた智将。軍略者としての名声は日ノ本に広く知られる程で、その軍略で武田家を支えている。

勘助は仮名であるが、家中ではその名で通っている。

山県昌景と共に武田信玄を幼少の頃から世話をしてきており、武田家の古株の一人でもある。その為、山県昌景とはよく酒を飲んだりと仲がいい。

CV:山本兼平 デザイナー:京作

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史実紹介

 山本勘助(菅助)(やまもとかんすけ)は、戦国時代の武将。諱を晴幸、出家後道鬼斎を称したというが、信憑性はない。勘介とも書く。
 武田二十四将の一人で、武田の五名臣の一人でもある。武田信玄の伝説的軍師として講談などで有名である。架空の人物ではないかとの説もあるが、武田信玄書状に「山本菅助」の名があることから最近では実在した人物であるとの説が支配的である。
 近年の研究で、勘助は武田軍の伝令将校だったのではないかとする説もある。
 生没年は、『甲陽軍鑑』によると1493年~1561年という。生年は明応9年(1500年)説、文亀元年1501年説がある。
 没したのは1561年9月10日、川中島の戦いで討死したとされる。