疾風怒濤「村上義清」

華奢な見た目に反して、武に名高く勇将としての雰囲気を纏っている。

自分に無い部分を他人から学んで補い、更に強くなりたいと上を目指す向上心がある。

その為訓練は厳しいのだが、兵たちは音を上げる事無く義清について行き、とても信頼されている。

北国出身なので暑いのは苦手。

CV:藤森ゆき奈 デザイナー:歩鳥

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史実紹介

 父は左衛門督村上顕国。母は室町幕府管領の斯波義廉の娘。
 北信濃の戦国大名で、信玄の代に武田と対立した。戦事に長けた武将で天文17年(1548年)には小県に侵攻してきた信玄を上田原の戦いで破る。
 天文19年(1550年)には戸石城に迫る信玄を再び撃退し、「戸石崩れ」と呼ばれる屈辱を味わわせた。だが、武田家の軍師真田幸隆の計略により、味方を切り崩され、天文22年(1553年)に越後へと敗走した。それ以降は、上杉謙信の家臣となり再び武田と戦い、永禄4年(1561年)第4次川中島の戦いにおいて、信玄の弟・武田信繁を討ち取ったとされる。しかし、遂に本領回復は果たせず、元亀4年(1573年)1月1日、越後根知城で病死した。義清は長槍による槍衾戦法を得意とし、槍戦術の創始者の一人に数えられている。