文治の中核「相良武任」

肥後の国人・相良氏の一門の武将で、大内家の文治派を形成した。

自分の興味が無いことには無関心だが、興味のある話題については時間を惜しまずに話をしてくれる。

書物を読むのが好きで、一度読み出すと周りのことが気にならないほど無心に読み続ける。

陶隆房とはかなり仲が悪い。

CV:猪鹿ちよ デザイナー:レクリエール

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史実紹介

 大内家家臣。大内義隆に仕えた。相良家は藤原南家の流れを汲む名門。奉行人、祐筆を務め、のちに評定衆に名を連ね、文治派の中心として権勢を振るった。
 天文10年(1541年)陶晴堅ら武断派の提言により義隆が尼子攻めを決意した際、武任は大反対。
 晴堅や内藤興盛ら武断派との溝を深めた。武任の読み通り、尼子攻めは大失敗に終わり、彼の家中での発言力は増大。
 大内義隆の信任を受けて文治派を形成し、武断派と対立する。しかし、天文14年(1545年)、隆房らの巻き返しを受けて失脚し、出家。
 その後、肥後に隠棲していたが、義隆の要請を受けて再出仕した。
 天文20年(1551年)1月には義隆に対して「隆房・興盛らに謀反の企てあり」と知らせるにいたり、武断派との仲は破局を迎え、武任は再び大内家を出奔する。
 そして陶隆房が謀反を起こしたとき、花尾城で殺害された。