1939年。帝都。
その大柄な男は、軍服をまるで地肌のように着こなしていた。
軍隊暮らしが長かったのか、それとも生まれながらに兵なのか。
むくつけき巨躯と彫り深い顔。
眼窩にのぞく目はどこか茫洋たる色がある。
男は悠然と改札口を抜けた。
男の名は真田幸秋という。
駅の改札口を抜けた男には、帝都には似つかわしくない気配があった。
静かな、しかし確かな武の匂い。
この男は、常に己を命のやりとりの中においている。
行き交う人々がこの男に目を向けては逸らすのは、そのせいであろうか。
真田幸秋
真田幸秋

これが帝都か

故郷である仙台とは、あまりにも違う。
幸秋はまるで己が異国にいるような感覚を覚えていた。
たたずむ幸秋の鼻先を、花びらが舞った。
桜の頃である。
真田幸秋
真田幸秋

帝都にも、桜は咲く、か

ごく当たり前のことを口にしながら、幸秋は歩き出した。
待ち合わせ場所は、帝都駅丸の内口。
江戸城を望む帝都駅の正面玄関である。
しばらくその場に佇みながら、幸秋は江戸城をじっと見つめている。
赤い真田を受け継ぐ己が、江戸城本丸を目にするとは思わなかった。
幸秋はそう思うが、特に感慨はない。
さても信繁公は……幸秋の遠い祖先は、いかなる心持ちで、葵の紋に刃を向けたのか。
なんとなくであるが、幸秋には祖先の心中がわかる。
真田幸秋
真田幸秋

……なんとも、挑みたくなる城だな

???
???

不敬だな。真田殿

真田幸秋
真田幸秋

これは……伊達殿!

幸秋の目の前には、女人がいる。
少年のようなあどけなさと、凛とした強さがある。
そして言葉にならぬほどの愛くるしさが。
伊達愛姫
伊達愛姫

迎えにきたぞ、仙台藩士、真田幸秋殿

真田幸秋
真田幸秋

……迎えをよこすものだと

伊達愛姫
伊達愛姫

私が来てはいけなかったか?

真田幸秋
真田幸秋

もったいないことです

伊達愛姫
伊達愛姫

幼馴染だろうに。昔のように慣れた名前で読んでくれ

真田幸秋
真田幸秋

じゃあボンちゃん

伊達愛姫
伊達愛姫

それは本当に子供の頃の呼び名だろう。……私が父上、母上から賜った名前だ

真田幸秋
真田幸秋

では……めごたん

伊達愛姫
伊達愛姫

そんな名で呼んだことはないだろう! あいかわらず仏頂面でボケる男だな!

真田幸秋
真田幸秋

すまん、愛姫殿

伊達愛姫
伊達愛姫

気にするなユッキー。……いや、幸秋殿

少女は、少しだけ頬を染める。
仏頂面の男は、少女をじっと見つめている。
真田幸秋
真田幸秋

しかし、変わったな

伊達愛姫
伊達愛姫

そうだな。あの震災から……よくもここまで持ち直したものだ

帝都を襲った震災は、未だ少女の心に影を落としているのだろう。
幸秋はかかる天災を人づてにしか知らない。
発展を続けていた帝都が、一夜にして廃墟となり、多くの人命が失われた。
幸秋はわずかに目を伏せる。
真田幸秋
真田幸秋

いや、ボン……ではなく、愛姫殿が、だ

伊達愛姫
伊達愛姫

……私が?

真田幸秋
真田幸秋

ああ。それに俺は、震災前の帝都を知らぬ

伊達愛姫
伊達愛姫

そうであったな……で、私はどんな風に変わった?

真田幸秋
真田幸秋

………………うーむ。………………むう

知謀をうたわれる真田とは思えないのんびりとした思考である。
愛姫は正直呆れた。呆れながら、愛姫はどこか安心を覚える。
伊達愛姫
伊達愛姫

なんでそこで考えこむ

真田幸秋
真田幸秋

……すまん

伊達愛姫
伊達愛姫

なんというか、貴殿は相変わらずだな

真田幸秋
真田幸秋

…………そうでもない。声変わりもしたことであるし

伊達愛姫
伊達愛姫

背も伸びた……な

だがこの男、根本的なところは変わっていない。
いつも心ここにあらざるようで、それでいて周囲を俯瞰している。
真田幸秋
真田幸秋

ボンは綺麗になったな

男は、ボソリとそういった。
照れているようでも狙ったようでもなく、実に淡々と。
伊達愛姫
伊達愛姫

おっ、お前! そういうことはもっと早くいうものだ!

真田幸秋
真田幸秋

………………すまん

伊達愛姫
伊達愛姫

子供の頃は私を男と勘違いしていたくせに……本当に真田は、不意打ちに長けているな

真田幸秋
真田幸秋

そんなつもりはないのだが……

伊達愛姫
伊達愛姫

フン。とっとといくぞ、ユッキー

愛姫は、肩をいからせて歩き出した。
と、思うと後ろを振り返る。
伊達愛姫
伊達愛姫

あと、ヒゲくらい剃れ!

真田幸秋
真田幸秋

………………気になるか

伊達愛姫
伊達愛姫

無精髭で帝都に出てくるとは、本当に不遜な男だな、真田殿は!

真田幸秋
真田幸秋

……自分では気に入っている

伊達愛姫
伊達愛姫

気に入っている?

真田幸秋
真田幸秋

……男らしいと思うのだが

伊達愛姫
伊達愛姫

無精に見えるだけだ! ほら、行くぞ!

幸秋は、首をかしげた。
帝都。参謀本部。
幸秋は、ぬっそりと歩いている。
行き交う軍服の士族たちの中には、この男に敵意の視線をむける者も少なくはない。
伊達愛姫
伊達愛姫

気にするな、と言っても無理か

真田幸秋
真田幸秋

何をだ

伊達愛姫
伊達愛姫

……はなから視界に入ってなかったか

攻撃的な鈍感さだ。愛姫は幼馴染との再会で感じた嬉しさを少しだけ脇において、現在の真田幸秋を図ろうとする。
伊達愛姫
伊達愛姫

(静かなる所作に、獣めいた屈強さがある)

強い犬は吠えぬという。本当に強い者は、己の強さを誇示する必要はない。
愛姫とて武家の生まれである。
かつてこの国で葵の紋と覇を競った武家、その中の一角、伊達家の姫である。
伊達は関ヶ原でこそ東についたが、心中には葵の家に付き従ったものたちへの言い知れぬ想いがある。
伊達愛姫
伊達愛姫

(なれば幸秋殿にこそ、神君への対抗心があってもよさそうなものだが)

だが真田……。
伊達家の家臣として命脈を繋ぐ真田家の人間は、葵の御紋への怨みもなければ自負も見られなかった。
やんちゃだったころの愛姫は、幼い幸秋に祖先より伝わる武勲を聞き出そうとしたが、
幸秋はそもそも己が真田の血を引いているという認識が希薄であるように見えた。
だが、それでいて。
伊達愛姫
伊達愛姫

(真田幸村とは……幸秋のような人であったのではないか)

愛姫はそう思わざるにはいられぬのである。
参謀本部。執務室。
室内に入った幸秋の目に飛び込んできたのは、小柄な少女である。
幸秋は少女を前に頭を下げた。
少女の外見は一見あどけない。
子供らしい無邪気さと素直さ。だが、その所作にはまるで隙がない。
真田幸秋
真田幸秋

真田が嫡男、真田幸秋です。……帝都に足を踏み入れることなかれという沙汰、お取り下げいただき…………誠にありがとうございます。酒井様の温情には……

???
???

頭をあげい。というか、堅苦しい礼儀はぬきでよい

真田幸秋
真田幸秋

……はっ

酒井忠
酒井忠

酒井忠じゃ。よろしくな、若き真田よ

真田幸秋
真田幸秋

若き……

酒井忠
酒井忠

お主の祖父とは、大陸で共に戦った仲じゃて

真田幸秋
真田幸秋

……さようでしたか

ありえぬことであった。
日露戦争は数十年前である。幸秋の祖父と同世代というのは、どういうことなのか。
その秘密を、帝都の人間も不可解に感じている。
だがその疑問をわざわざ問う者はいない。
この少女は、皇国最大にして最高の名家、四柱臣家がひとつ酒井家の当主なのだ。
この日の本において、四柱臣家が西から日が昇るといえば、そうなのである。
酒井忠
酒井忠

もっと驚くかと思ったが、冷静じゃな。ますます幸春そっくりじゃの。……その無精髭も

真田幸秋
真田幸秋

失礼しました

酒井忠
酒井忠

お主もその……男らしいと考えておるのかの。その無精髭

真田幸秋
真田幸秋

やはり、可笑しいでしょうか

酒井忠
酒井忠

一考を勧める

真田幸秋
真田幸秋

承知いたしました

酒井忠
酒井忠

ま、お主を仙台から呼び出したのは、髭の件をとやかくいうためではない

本来なれば武人としてはかけがえのない栄誉。
だが今の真田幸秋に、その栄誉を与えるということは……。
愛姫は、幸秋の言葉に不安を覚える。
酒井忠
酒井忠

先の戦で我らは、中天に領地を得た

先の戦とは、日露戦争……そしてそれに続く世界大戦のことである。
激しい戦いの末、皇国はその地を勝ち取った。
そして、それから続く進攻によって皇国は大陸に一つの拠点を築くまでになる。
“満州”大戦で得た中天内の領土を足がかりに手に入れた皇国初の飛び地である。
酒井忠
酒井忠

うむ。さて真田よ。お主なら中天に打たれたこの楔、いかにする

真田幸秋
真田幸秋

捨てます

愛姫は、目を丸くした。
領地を捨てる……?
悪手どころの話ではない。愚行である。
あの戦で、日の本がどれだけの血を流したと思うのか。
その結果勝ち取った領土を、捨て去れというのか。
愛姫は無精髭の放言に、怒りを感じた。
たとえ戯言でも、いってはならぬことがある。
だが、四柱臣家最大の怪物は、微笑みを作った。
酒井忠
酒井忠

完璧な手じゃな

伊達愛姫
伊達愛姫

そんな!?

愛姫はうろたえた。うろたえざるを得ない。
しかしそれをいうのはあの酒井忠である。
酒井忠
酒井忠

中天をポイしてしばらく静観しておれば、ほどなく世界中の強国同士が殺しあって皇国に金を普請してくる。皇国は債権国になり戦わずして世界征服じゃ

伊達愛姫
伊達愛姫

あ、え、その……

思考のスケールが、まったく違う。
愛姫は一人混乱していた。
真田幸秋
真田幸秋

……天下は今や乱世……先の大戦を上回る戦となるやもしれません

酒井忠は、静かにうなづく。
真田幸秋
真田幸秋

関係の悪化しているアルメリカ、ブリタニアとは和議を結び、火の粉を避けるべきかと

愛姫は真田の心中をはかりかねて迷った。
アルメリカとブリタニアの両国こそは、今の世界の混乱の源ではないか。
先の大戦の実質的な勝者であるアルメリカは、勝った国からも負けた国からも膨大な金を巻き上げた。
そしてその金を後生大事に抱え込んだあげく、世界恐慌を引き起こしてしまった。
そしてブリタニアは戦には勝ったものの金を失い、保護貿易に走った。
ブリタニアは世界中に植民地を持つ。この植民地の間だけ貿易を行い、他国の輸入を禁じた。
これによってブリタニアの内需は増加したが、輸出にたよっていた他の国の所得は減ってしまう。
例えば皇国などはたまったものではない。
伊達愛姫
伊達愛姫

和議など、そんなことが可能なはずが……

真田幸秋
真田幸秋

……戦に比べれば、頭を下げるくらいなんということはないでしょう

そうはいってみるが、幸秋も交渉というのが時に戦以上に厳しいものであることを知っている。
交渉の失敗は、国を損なう。そして戦と違って弱いものから死ぬ。
酒井忠
酒井忠

さすがよ真田。……だが浮世にて、最善の策は遡上にさえのぼらぬもの。つまるところ愚策にすら劣る

伊達愛姫
伊達愛姫

では……

酒井忠
酒井忠

中天の領地より退くことは、なにより我が国の民がゆるさぬ

酒井忠
酒井忠

アルメリカの馬鹿どもがおこした世界恐慌のおかげで、日の本の台所も絶賛炎上中じゃ。財政支出のおかげで景気は回復しておるが、まだまだ民の不満は根強い

伊達愛姫
伊達愛姫

なれば……

酒井忠
酒井忠

我らも植民地の治安を守らねばならぬのう

伊達愛姫
伊達愛姫

つまり、満州の支配を確固たるものとする……ということですね

酒井忠
酒井忠

我が国の委任統治領の保全じゃ。ポイできぬのなら、しゃぶり尽くさねばな

真田幸秋
真田幸秋

ええ

酒井忠
酒井忠

お主にやれるか、真田幸秋

真田幸秋
真田幸秋

はい

事も無げにいった。
迷いなく発せられた言葉ではない。
ただ、仙台よりの道すがら、すでに幸秋は迷い尽くしている。
真田幸秋
真田幸秋

大陸侵攻の旗頭、この真田幸秋が努めてご覧にいれます

本来仙台藩士に過ぎぬ真田家にとって、分不相応な大役である。
だが真田の名を、知らぬ者はいない。
神君家康を追い詰めた武勲は、現在でも民の語り草であった。
そればかりではない。
真田の姓を受け継ぐ真田の武人たちは、日露戦争において劇的な勝利をもたらした。
国力差でいえば大人と子ども、絶対不利の戦いを覆した小国日の本。
その軍を率いた真田の一族の名は、恐怖をもって知れ渡った。
酒井忠
酒井忠

よくぞ申した。されど、お主に与える武勲はない

伊達愛姫
伊達愛姫

それは……どういう

愛姫は、幼馴染が陥った境遇をいまさらに悟り動揺する。
だが、真田幸秋は身じろぎもしない。
酒井忠
酒井忠

勝っても負けても民は苦しむ。これからの戦はそういうものになろう。お主には陛下にかわって、民に恨まれてもらうぞ

体制側にとって、真田の高すぎる風評は危険である。
まかり間違って幕府への敵対勢力に加わり、あまつさえその頭に収まりでもしたら、他国も巻き込んだ内乱がおこる。
よってこの時代、赤い仙台の真田は、西へ向かうことを禁じられている。
西国九州には、幕府に二度も逆らったものたちの血を継ぐ者たちがいたのである。
よって幕府には、二重の目論見があった。
真田を自陣に引き込みながらも、民の怨みを背負わせようというのである。
だが……ここまでの理由は、軍の官僚たちが企図したもの。
酒井忠の思惑はその斜め上である。
酒井忠
酒井忠

(大陸を捨てるというその判断や良し。我らは現代戦をやるのだ。講談に出てくる真田幸村などはいらん。……ふふ、真田幸秋、祖父に似て寡黙ながら、心得ておるな)

真田幸秋
真田幸秋

このような時のための、赤い真田でありましょう

伊達愛姫
伊達愛姫

そんな……そのような御役目、あまりにも酷い

愛姫は、目を伏せた。
伊達愛姫
伊達愛姫

(……どうして…………まさか、幸秋は、黒い真田の身代わりに……!)

酒井忠
酒井忠

真田幸秋。これでそなたは、百年に渡る汚名を被ることになろう。願わくばその汚名、全世界に轟かすべし。真田の六文銭を見ただけで敵が降るように、な

真田幸秋
真田幸秋

疵痕こそは、武士の誉れ。汚名こそは、将の誉れ。この真田幸秋、喜んで

酒井忠
酒井忠

葵の紋はお主の献身に報いよう

真田幸秋
真田幸秋

信じるもののために戦う……それこそは、武士の本懐です

酒井忠
酒井忠

……信じるもの、か……ところでそれはなんじゃ

真田幸秋
真田幸秋

……………………むう

酒井忠
酒井忠

……いえぬか。なれば、口にせずともよい

真田幸秋
真田幸秋

いえ、言葉にするのが…………難しい物というか……

酒井忠
酒井忠

侍の挟持、真田の誇り……のようなものかの?

真田幸秋
真田幸秋

いや…………別にそういうものではなく…………なんというか…………。例えて申しますと、我が故郷には、忘れずの山という山がありまして

酒井忠
酒井忠

ほぇ? ……ああ、蔵王か

真田幸秋
真田幸秋

はいその蔵王です…………実に見事な山でして。その山を見ていると、気持ちが大きくなるのです

酒井忠は、珍しい表情をしている。
ちょっと困っているのだ。
酒井忠
酒井忠

えーと……なんの話じゃったかのう

真田幸秋
真田幸秋

私が信じるものは……いってみれば蔵王のように悠然たるもの……ということです。私はその……心にあの峰があれば、戦えるのです

酒井忠
酒井忠

おぬし……自分のことを語るのがへたじゃのぅ……

真田幸秋
真田幸秋

お恥ずかしい

酒井忠
酒井忠

でもまあよい。侍とは一言で語れぬものよ。愛姫殿、こやつを部屋に案内してやるがいい

伊達愛姫
伊達愛姫

はっ

幸秋は深く一礼し、幼馴染の姫と共にその場を去った。
残された酒井は、嘆息する。
酒井忠
酒井忠

……さすがは真田、血は争えぬか

忠は、どこか遠い目をしていた。