1941年12月8日の開戦以来、
日本軍は破竹の勢いで連戦連勝の道を歩んでいた。
当初、計画では開戦後半年はかかると予想されていた
ジャワ・スマトラなどの油田地帯の占領、
フィリピン・シンガポールなどの
アメリカ・イギリスのアジアにおける重要拠点の制圧を
1942年5月までに成し遂げていた。
海軍はこの勢いに乗じてオーストラリア、インド方面に
積極的に侵攻し、これに伴い起こる艦体決戦にて
敵艦隊を殲滅し、制海権を獲得する事を主眼に置いていた。
しかし、これに対して陸軍はインドやオーストラリアなどの
攻略は我が国の国力に合わないとして、
中国を制圧して恒久的な戦力持久体制を作ろうとしていた。
この対立は妥協案として「米豪遮断作戦」の提案により
事なきを得るに至ったが、相反する両軍の対立構造は、
後のソロモン・ニューギニア方面での戦いでも
顕著になるのであった。