宇喜多家

宇喜多秀家
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武将史実

武将史実

宇喜多直家の子息で宇喜多家最後の当主。一時は備前岡山57万4千石を治めた。 直家にとっては晩成の子で、父の病没後9才で宇喜多家の家督を相続、翌年、羽柴秀吉の毛利征伐に出陣し、秀吉に気に入られ厚遇される。本能寺の変後は積極的に秀吉に従って合戦し、戦功を上げた。 秀吉没後、秀家は家臣団にキリシタンへの改宗を命じ、これが元でそれまでの不満も爆発、お家騒動へと発展する。これに家康が介入して収めているが、宇喜多家からは優秀な家臣達が離れてしまい(うち、一部は家康の下へ走った)、宇喜多家衰退の原因となった。 『関ヶ原の戦い』においては西軍副将として大兵力を要し奮戦。裏切った小早川秀秋の陣営に斬り込もうとしたが明石全登に止められ落ち延びた。 関ヶ原後に、宇喜多家は家康によって改易され、秀家自身は八丈島に流罪となり、その地に多くの逸話を残した。

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